2015年11月02日

戦争と写真 最終未定稿 2015.11.2.

 戦争と写真 最終回
 これまで取り上げてきた写真は、「報道写真」が中心である。とりわけ、日本の,いわゆる支那事変から大東亜戦争に係わる報道写真が主であるから、アメリカの南北戦争を撮影したゲティスバーグの「南北戦争の戦場」(撮影者オサリヴァン)やキャパなどには触れなかった。報道写真を論じるからには、それらや、他にも取り上げたい写真はいっぱいある。いずれ単行本として上梓する機会があったら紹介しよう。写真1,2
 そこで私は考える。写真とは何か、ということだ。
 『黒き肌への旅』の著者・北方謙三は「真を写すと書くが、実は写と真の間にさまざまなものがあり、私の場合は、そこに自己表現というものが入っているのだ」と語っている。こうなると、「真」はなんだろうか。ますます複雑になる。    写真は「生命とマシンと外界とが三つ巴になったバトルの現場(大竹昭子)」とか、人間の無意識をあぶり出すものだ、とかいろいろな定義があるが……。
 写真を辞書にあたると、「実際の様子を写し取ること、ありのままを描き出すこと、またその像」と定義されている。これが一義的な定義で「感光性物質の光化学的変化を利用して物体の画像をつくる技術」とつづく(『日本国語大辞典』小学館)。これに「電磁波や粒子線などで構成される弁別可能な存続性のある像」とひろげればよいだろうか。テレビの映像もビデオやDVDがあるから写真である。
 Photographを「写真」と訳したのは,誰だろうか。250年ほど昔に、この言葉が登場したといわれている。宝暦、明和など徳川9代、10代将軍・家重、家治の時代である。中国の絵画論からきた「真を写す」かららしい。平賀源内、司馬江漢,亜欧堂田善、葛飾北斎など絵画の世界だ。対して二義的な意味の「写真」は、黒船時代、正確には1850年代「安政」と称した時代で「印象鏡」「象鏡」などの言葉だったようだ。その後、「直写影鏡」などとも呼ばれる。化学を舎密と呼んだ文久、慶応時代(1860年代)には,写真鏡なんて言葉もある。この「写真(鏡)」は現在の「写真」とは違う。
 いずれにせよ、これらの言葉に「鏡」が関係していることは興味深い。これは「カメラ・オブスクラ」というラテン語の「暗い部屋」からきた言葉だろう。Photo は「光線の」、graphは「描く」の意味だから、光が描く像といったニュアンスだろうが、Photograph、Photography、negative、positiveと言った言葉を化学者ハーシェル(1792〜1871)が発表したのは1839年である。日本に写真という言葉が定着するのはずっと後年のことだ。
 いろいろ調べたが,「写真」を、誰がいつから使用したか、特定することは出来なかった。
 写真の嘘と真実などが問題になるのは、報道写真においてである。真=真実を写したものが写真であると誤解さているからで、それには「写真」という言葉の曖昧さが係わっている。さらに客観性、写実性まで絡んでくるからややっこしい。左右が逆転するが,像(象)をそのまま写す(映す)鏡,「象鏡」のほうが誤解されなかったろう。しかし、今更「報道象鏡」ではアナクロニズムと笑われる。
 巷に溢れている写真は何も語らない。「自分では何も説明できない写真は、推論、思索、空想への尽きることのない誘いである」(スーザン・ソンダク『写真論』)。
 言葉が消えることはない。しかし、それが主役の時代は永遠だろうか。その主役の永遠の座を脅かすのは映像=写真である。写真を映画や報道写真に置き換えてみれば,その深刻さが理解出来るだろう。感動をつたえるコミュニケーションとして映画(動画)を考えれば,言葉は太刀打ちできるだろうか。
 「見る(視覚)」が人間に及ぼすいろいろな反応(効果)は、どいうことか。レンズ(カメラ)で見ることと,目で見ることと、何処に、どんな、相違があるのか。想念は果てなく拡大する。

 日本最古の写真は、どのようなものだったのだろうか。
 ここでも、躓いてしまう。「日本最古」という概念の多様性である。日本人を写した一番古い写真といった面もあり、日本に現存する最古の写真という面もあるのだ。
 日本に写真器具(ダゲレオタイプの銅版写真)が伝えられたのは1843年に長崎に入港したオランダ船によってである。積み荷の中にあったのだ。御用商人の上野俊之丞(上野彦馬の父)が、その器具を描いた。そのスケッチが残されている。写真3
 1841年(嘉永4年)、遭難した日本の漁船員3名がアメリカの船に救助された。この時撮影されたといわれている写真が川崎市民ミュージアムや横浜美術館に保存されている。日本人が被写体になった最初の写真といえよう。
 ところが、日本に現存する最古の人物写真といわれているものは、エリファレット・ブラウン・ジュニアガ撮影した1854年の「田中光儀像」である。下田で撮影された。田中は浦賀奉行所の与力だった。この1854年(安政元年)に撮影されたという写真が,他に二枚ある。「黒川嘉兵衛像」「遠藤又左衛門と従者像」。
 最古の写真は松前町が所蔵している「松前藩主席応接使 松前勘解由」、函館市所蔵の「松前藩士 石塚官蔵と従者像」、個人所蔵の「藩士 遠藤又左衛門」という説もある。撮影した時刻が不明だから,どれが最古かという詮索は意味ないだろう。
 以上のことは,人物写真に限ってのことで、ブラウンは同じ時に、下田や横浜の風物を撮影している。プーチャン提督の率いるロシア艦隊も日本各地の風物を撮影していて、下田の玉泉寺住職を写したものなどが確認されている。
 写真史を語るのが目的ではないから,これ以上の詮索は止めよう。
 戦争と写真で有名なものは、これまで紹介してきた写真のほかにも、いろいろあるが、最高の戦争写真家といわれたロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」は有名だ。ところが,これは銃弾を受けた兵士が倒れる瞬間を撮った写真じゃなくキワモノ作品であるとことが明らかにされた。報道は、それを伝える人(記者)のビリーフやイデオロギーに左右される。権力からの検閲や強制にも干渉される。そもそも、報道に無垢なものなど存在しない。「ある」ものを報道する、「あったこと」を報道する。そこには何らかの目的(思惑・意図)が必ず存在するのである。目的は無垢でない。それを映像で伝えるのが報道写真家や放送写真家であるから、そこにも思惑は絡まる。まるで蜘蛛の巣だ。
『ライフ』によって世界に報道されたキャパの写真から学ぶことは、報道写真が必ずしも真実を報道するものでないことだ。時流によっても報道の中味は歪められる。とりわけ権力のプロパガンダの手段として利用されると、「写真」は「写嘘」になるのである。その映像は真実めいた偽装である。アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)下に、そんなもので騙されてきたことを忘れてはいけない。
 キャパの写真に疑問を呈したのはフィリップ・ナイトリー(ジャーナリスト)だが、彼は「この写真について奇妙なことは、それが写真としては何も語ってくれないということである」(『戦争報道の内幕』芳地昌三訳)とのべている。「写真としては何も語ってくれない」と言う指摘は示唆に富む。写真とキャプションの問題に発展するからだ。
 報道写真は出版メディア抜きには考えられないから、ここにフォトジャーナリストが登場する(『アサヒグラフ』が創刊されたのは1923年、『ライフ』の創刊は1936年である。報道写真の効力をいち早く利用したのが日本であることは特筆して良いだろう)。
 繰り返しになるが、彼らがアジア・太平洋戦争に巻き込まれて、時の政府や軍部の走狗になったことを忘れてはいけない。土門拳や濱谷浩などは、そうした時流に背をむけた数少ない写真家であるなどと評価されたりするが、これは正しい評価ではない。土門については既に触れた。濱谷浩(1915〜1999)は『FRONT』 のスタッフであった。その『FRONT』のどの写真が彼のものかは判らない。しかし、写真に撮影者のサインがないことで頬かぶりする事は許されない。責任を承知しているのなら、これこれは私の撮影だ、と名乗って初めて責任をはたしたことになる。『FRONT』の上層部と衝突して退社した(といわれている)彼は新潟の高田で、戦後上梓した『雪国』の写真を撮っていたそうだが、何処に逃亡しても無署名に頬かぶりした事実は消えない。このあたりの叙述、誤解されないように繰り返しておくが、土門や濱谷の名声にけちを付けるつもりではない。事実をはっきりしておこうと云うだけである。おかしな政局が続いて改憲論が叫ばれ、多数決のごまかしと横暴で、変な法律が成立している。この国は、ふたたび物騒な武装管理国家に戻りそうな情勢である。そのような時代になったら、以上に述べた問題は、自分自身の問題になるだろう。人ごとではないのである。
 安井仲治(1903〜1942)というアマチュア写真家がいた。関西の丹平写真倶楽部で活躍した人物だ。彼の「窓」(1941年)は,忘れられている作品である。アメリカに亡命するユダヤ人達が神戸に立ち寄った際に撮影された。余談だが、この時、倶楽部員だった手塚粲も息子の浩をつれて撮影に同行していた。手塚治虫の父と弟だ。手塚の作品に『アドルフに告ぐ』という神戸のユダヤ人を扱ったものがあるが、父や弟から聞いた話が創作動機だろう。
 安井だったら、あの戦時下に或いは時流に批判の目を向けた写真家であり得たか、と思えるが、腎不全で3月15日に急逝している。つまり、戦争が熾烈になった時期には生きていなかったのだ。これは5月11日に他界した詩人の萩原朔太郎(1886〜1942)に通じる生涯で、ある意味では両名とも幸運だったかも知れない。この視点から考察すれば、闘病の果てに他界した島崎藤村(1872〜1943)なども含まれるだろう。写真4

 1945年になると、報道写真は極端に少なくなる。資材の欠乏が一因だが、報道出来ない事ばかりになってきたことが主要な原因であろう。これは、その頃の新聞や雑誌を見れば良い。新聞は用紙不足で昨年から夕刊はなくなり、表裏二面だけの(ペラ)一枚紙面。実際は,有るところにはあったので、欠乏は表面的な理由にすぎない。その証拠に、敗戦と同時に、前述した文化社は『東京1945年・秋』を出版している。三島由紀夫は親父のつてで入手した紙で著書を上梓している。
 戦争末期の報道写真めいたものは、報道写嘘である。『写真週報』の最終号となる374,375合併号(1945.7.11)の表紙は「ラバウル化された地下陣地内」と説明があるが、それが何処にある陣地かは不明だ。何時撮影されたのかも明示されていない。決死の眼で勝利の作戦会議云々とある説明文も、説得力がない。将兵たちは放心しているようにも見える。(写真5)
参考文献(主なものだけ)
メディア写真論 佐野寛 、写真のアルケオロジー ジェフリー・バソチェン、 写真の心 平木収、
写真の歴史 クエンティン・バジャック、世界写真史 飯沢耕太郎監修、 疑惑のアングル 新藤健一
キャパの十字架 沢木耕太郎、写真の裏の真実 岸本達也、 報道写真と報道 白山真理、 写真の歴
史入門1〜4東京写真美術館監修、

更新の機会を逸し、意欲も衰えて結末が見えない。未完成のまま本信でなく「余話」に記録する。
文中に写真1などとあるのは、写真を添付するつもりのところ。
読者よ、未完成を許されよ。
posted by 櫻本富雄 at 16:46| Comment(0) | 空席通信・余話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月31日

藤田嗣治のこと 2015.10.31

 画家藤田のことは、これまでおりにふれて述べてきた。国立近代美術館では12月13日まで彼の戦時下の作品を含めて同館所蔵の藤田ものを一般公開している。
 暑い盛りから今日まで、何回同館に通ったか。日曜日は無料とあって、賑わうが、平日はゆっくり鑑賞できる。やはり圧巻は「アッツ島玉砕」の絵だ。開館から閉館近くまで見つめていた時もあった。そこで、いろいろなことが判ってきた。彼が占領軍の嘱託として戦争記録画を集め、提出したことは周知のとおり。この時、彼はサインを書き直している。このことも何回か触れた。この行為は「改ざん」であろう。占領軍に提出された戦争記録画は、これからは国際的に鑑賞されるのだから、国際的に通用するサインにするのだと、書き直している現場に立ち会った女性に彼は語ったという。藤田のことはいずれ書くつもりで関連資料を随分集めた(戦時中の私信も何通かある)。しかし、この女性の存在は知らなかった。それはともかく、藤田はサインだけを描き直したのではなく、ほかにも加筆しているというのが私論だが、いずれにせよ、現在、藤田の「アッツ島玉砕」を論じることは、戦時下の「アッツ島玉砕」を論じることではなくなっていることに留意する必要があるだろう。もうこの世に戦時下の、あの「アッツ島玉砕」の絵は存在しないのだ。
 絵を眺めていて、これまでは画面中央に描かれている軍刀を振りかざした兵士が「山崎部隊長」と言われていたが、そうじゃないように思えてきた。左寄りの後方に黒い影で描かれているのが部隊長のようだ。
 もう一つ気づいたことは、藤田の改ざん行為が、この絵だけではないことだった。ほかの戦争記録画にも加筆している。
 折しも、今夜(10月31日)、藤田の肉声を録音したものがみつかり、放送するという。彼の肉声を聞くのは初めてだから期待している。
posted by 櫻本富雄 at 17:26| Comment(0) | 空席通信・余話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月19日

埴谷雄高さんの思い出 埴谷雄高さんの思い出 2015.5.19.

 遊びにいらっしゃい、と招待されたことは誰にもあるだろう。招待主は、全く知らない人からの招待は考えられないから、友人や知人に限定される。個人でなく、団体や集団からの招待もあろう。劇団からの招待や会などのお招きである。小生も、これまでに何回か、そのような機会があった。小生に絶対に来ない招待は皇室からだろう。園遊会などは遠い縁のない話である。
 招待を受ければ、必ず行くことにしているが、事情があって受けられないこともあった。そのような時は、丁重に行かれない旨を伝えている。
 埴谷さんから「遊びにいらっしゃい」と手紙をもらったのは1994年のことだった。吉祥時南町からの便りだ。いろいろ考えたが、結局この招待は受けなかった。小生は、かの『悪霊』を読んでいないのである。何回も挑戦したが、その都度挫折して、読破出来なかった。あれは完結していない、と慰めてくれ友人もいたが…。埴谷さんは、小生の「金子光晴の虚妄地帯」を世に送り出してくれた恩人である。戦時下の資料について、何回かお助けしたことはあっても、会ったことはなかった。耳が遠いからと、電話での話もあまりなかった。「自分で自分の記録をつくり、そして自分でまた自分を破っています。どれだけ続くか」なんて難解な手紙も戴いている。
 読破出来ないことを告げて、会いに行けばよかったと、今は後悔してる。
 同じようなことが、もう一つある。大岡昇平さんからの招待だ。これにも行けなかった。ただし、この理由は小生の時間的なことが理由である。これはまた別の機会に話そう。
posted by 櫻本富雄 at 18:33| Comment(0) | 空席通信・余話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする